湯川秀樹著「物理講義」に物理学の2つの側面、「形式」と「解釈」に関する話があって、 面白かったのでそれに触発されて関連した話をちょっと書いてみます。
物理学には2つの側面があります。 物理に限らず、自然科学あるいは、 もっと広義に科学と呼ばれるもの全般についてもそうなのかもしれないですが、 以下のような2つの側面です。
哲学的な言い方をするなら前者は「実証主義」「経験主義」って奴で、 この主義に立つなら、実験で確かめられることだけが科学の対象です。 「仮説を立てる」、 「その仮説をうまく表現できる数学的な道具を整備する」、 「実験で確かめる」の繰り返しで作られる形式(formula)が科学。
一方の後者の「解釈」は、「形而上学(けいじじょうがく)」って奴で、 実証主義な人からすると科学ではない。 もちろん、「どうしてそうなるか」を追う事は科学を発展させる動機ではありますが、 科学そのものではない。
形而上学になってしまうと、答えなんてものがないんですよね。 「人類の英知の発展によっていつか答えが得られる時代が来る」というものですらなくて、 いつまで経っても絶対に答えのない可能性もある。 少なくとも「どの解釈が正しいか」と問われれば、その答えはない。 「どの解釈だと分かりやすいか」くらいの問い方ならまだ答えらしき物もあるとは思いますが、 それですら論争を呼ぶ。 ただし、その論争の中から新しい形式が生まれることも多々あるんで、 答えがない・どれが正しいかなんてないからといって、 軽視するわけにもいかないものではあります。
量子力学みたいな (マクロな世界の住人たる人間にとっては)常識はずれな概念がたくさん出てくるものでも、 前節の 1. の意味、すなわち、形式としては正しいものだと一般的に言われています。 以下のような、なんか意味の分からない方程式を使うけど、 それを解くと確かに物理現象の予言が可能だと。
| ∂ |
| ∂t |
(ただし、まだ万能といえるような理論ではなくて、 「あるはっきりと分かっている条件・精度の範囲で予言が可能」と言うべきなんですが。) 実験的には、 確かに式から予言される現象が観測される。 それは、もう何十年にも渡って多くの物理学者が追試・検証を行った結果、 正しいことが確認されているものです。
ですが、2. の方、解釈としてはもう、もめっぱなしなわけですね。 上の式の ψ ってなんだろう?って。 例えば、
みたいな解釈があったりします。 ひょっとすると、どの解釈が正しいのかを判断可能な理論が将来的には生まれるかもしれないですけど、 少なくとも現時点では、どれが正しいのかは分からない物。
ここで少しばかり余談を。
まあ、科学を応用して人の世を豊かにしたければ、 実験的に形式が正しいことさえ確かめられればそれでいいわけですね(実証主義)。 でも、人間というのは知的探究心から解釈の正しさを求めちゃう(形而上学)。
哲学的な命題として、 「この世は決定論的なのか」というものがあります。 この世の全ては最初から筋書きが決まっているのか否か。 文学的に、「運命を信じますか?」みたいに言ってもいい。
古典物理学的には、 「今現在の状態が分かれば、完全に未来を予言できる」ということになっているわけで、 これを「世界は決定論的だ」というわけです。 運命は決まっている上に、原理的には完全に知ることまでできる。 ところが、量子論的にはなんだかよく分からないけども確率的な振る舞いが出てくるわけです。
量子論的な運命観についても、 とりあえず、実証主義的には、 以下のような実験に基づく結果が出ていたりします。
で、 カオス理論ってのがあって、 「微小な初期状態の差が、時間とともに無限大の差を生むことがある」って事が知られてるんで、 「物質の状態を正確に知ることができない」 = 「人間には、この世の未来を100%決定することはできない」と言える。
じゃあ、形而上学的にはどういう風に考えられるんでしょう。 まあ、もっといろいろあるとは思いますが、 少なくとも以下の2つのような考え方があると思います。
文学的な言葉で言い直すと、以下のような感じ。
この2つ、形而上学的にはものすごく大きな差なわけですが、 実証主義的には差はないんですね。 科学者に「干渉不可能」と「存在しない」を区別するすべはない。
僕なんかは、形而上学的には決定論者なんで、 後者を信じていたりはするんですが、 それ以上に実証主義者なんで、1. と 2. は同じものだと思っています。
「量子論は人間の常識的感覚からかけ離れてるので、解釈にもめるのはしょうがない」 と思う人がいるかと思います。 それはまあ、その通りな面もあるんですが、 じゃあ、常識的感覚で分かる古典論では解釈にもめることはなかったと思いますか? そんなはずもなくて、 古典論の時代でだって解釈にもめていたことはあります。 その一例として、 慣性力とかコリオリの力の解釈に関する話を少し。
慣性系ってものを説明するとき、 よくある例えで、 「電車が走ってて、電車の中にいる人と外の人の見ている世界がどうなっているか」 ってのがあります。
現代的な考え方では、 電車の中の人の見ている世界も、 外の人の見ている世界も、 どちらも同じ物理法則に従うべきで、 形式の上では、 どちらが静止していてどちらが動いているのかは区別できない。 「相対性の原理」なんていわれますが、 この原理によれば、絶対静止系なんてものは存在しない。
ニュートン力学でも、 電車が一定の速度で走っている限りには、 相対性の原理が成り立っているんですね。 電車の中の人から見れば、動いているのは電車の外の世界の方。
ところが、電車が加速したりカーブを曲がったりすると話は変わってくる。 電車が加速したり曲がったりすると、 慣性力、遠心力、コリオリの力なんていう「見た目の力」が生じます。 ニュートン力学では、 物体に直接触れて押そうと、万有引力であろうと、 力には作用と反作用があるんですが、 「見た目の力」には反作用がない。 ということは、反作用の有無で「本当の力」と「見た目の力」を区別できて、 見た目の力が働かない「絶対座標系」と働く「絶対ではない座標系」の区別ができることになる。
ということで、 ニュートン力学の時代には、 慣性力の解釈の仕方で結構もめているわけです。 絶対座標系の存在の有無に関ってくるので。 「見た目の力があるんだから絶対座標系ってものがあるはずだ」というのと、 「見た目の力を必要としない理論形式があるはずだ」というの。
まあ、前節の慣性力・コリオリ力の話は、 「形而上学的な疑問から実証主義的な理論が進歩する」 「形而上学的哲学が実証主義的科学の発展の原動力になる」 という例にもなります。 すなわち、「絶対座標系の存在の有無」という哲学をめぐって、 新たな理論形式が生まれてる。
実は、見た目の力を必要としない理論も作れるんですね。 以下のような考え方をするもの。
電車の中からすると、電車以外の地球なりなんなりの大質量が動いてるんだから大きな慣性力が生まれる。 逆に外からすると、電車程度の質量が動いたくらいではそれをあまり体感できないと考える。 この理屈に従えば、 加速があったって、 動いているのが電車の中か外かを判断する方法はなくなります。
ということで、現代ではやっぱり「相対性の原理」が支持されています。 理論が難解になるので、 実用上はニュートン力学で十分だし、わざわざこんな理論を考えるなんてのは無意味なんですが、 少なくとも、「相対性の原理」の支持には必要な理論です。 (必要条件であって十分条件ではないんですが。 絶対座標系の存在を完全否定できるわけじゃなくて、 否定できる可能性を示唆しているだけ。)
まあ、その後は、この理論がさらに発展することはなくて、 その代わり、 「相対性原理」に「光速度不変の原理」を加えてアインシュタインが「相対性理論」というものを作ったわけですが。 でも、もし相対性原理が否定されてしまっていたら、 アインシュタインの相対性理論は生まれなかったわけです。 もしかしたら、 上で軽く紹介したような、「磁場の重力版」みたいな理論から刺激を受けたからこそ、 相対性理論が生まれた可能性もある。 (相対性理論は、「電磁気学の世界の常識」を力学に適用したもの。 「磁場の重力版」という考え方はこれに近いものがある。)